真夏の蝉にて
蝉が死力を尽くして鳴く声を四方八方から浴びながら、私自身も暑さに行き絶え絶えとなり何とか地下鉄の駅にたどり着いているそんな日々。
一方で、足元には鳴くことをやめ死を待つ蝉が蟻に体に蝕まれながらも声なく佇む。
そんな蝉を指で摘まんで木の幹に着けてやると、蝉はゆっくりと上へと這い上がりだす。
幼生だった頃の本能か、また飛ぼうとしているのかは分からない。
歳を重ねてから虫は苦手になっていたが、そんな小さな生き物の生と死のコントラストに美しさを感じるようになったのもまた歳のせいに思う。
以前、こちらのブログで青葉城址からの眺めを書いたことがあった。
青葉城址は日中は駐車場有料だが、夜間は無料で駐車することができる。
丑の刻、深夜の2時ぐらいにかつて青葉城址に行ったことがある。
街灯こそついているものの、流石に人気がなく。
ただ、高台から望む仙台の夜景は人の営みそのものであり、夜に蝕まれながらも働く人の生が明かりとなって見えるのであった。
私は社会人になってから何人か友人・知人を失くしているが、そのうちの一人は蝉だった。
彼は東京に行ってとにかく働いていた。
連絡をしてもなかなか応答はなく、深夜3時ぐらいに「ごめん仕事忙しくて」と返信が良く来た。
蝉であることを知って欲しくてあえてその時間に返信をしてきていたのかもしれない。
当時の私がそこまで汲むことができれば、そうはならなかったかもしれない。
働いて、働いて、働き尽くして…
鳴き疲れて地面に落ちる蝉のごとく彼は死んだ。
彼の葬式で誰かが「なんで死んだんだ」「ふざけるな」「生きていれば…」などと言っていて、感情をうまく整理できていなかった私はぶん殴りそうになった。
自分で自分の命を終わらせた人間の骨を前に、よくもそんなセリフが出てくるな。
てめぇは何かしてやったのか?
今出てきた言葉と同じように「生きていればいいことあるから死ぬな」と、苦痛だらけのこの世界に縛り付けたのか?
てめぇの寂しいとか悲しいだろ全部。エゴをもう浴びせるな。
本当にどうにかしてやりたいなら、生活の面倒を見てやれるぐらいの覚悟がなきゃダメなんだと思う。
生きることすら自己否定している奴に、死ぬことも許さないとか鬼畜すぎる。
私は、死ぬことも許したい。
自分に余裕があるなら、助けたい。
話を聞いてやって、生活の面倒も見てやって、私の金で一緒に旅行に行って。
死ぬな死ぬなの大合唱は、個の圧殺だ。
逃げるは恥と教育されてきたから、優しくない社会になってしまったのだ。
逃げたものは再び同じように戦えないと見なされるから、皆逃げることを恐れているのだ。
一度逃げたものは同じように本当に戦えないのか?
一度も逃げてないものは今後も逃げないのか?
何度逃げてでもしぶとく生き残った者や、戦場を変える中で活躍の場を見つけた者こそが格好いいんじゃないのか?
私の友達は「みんなの正義」に殺されたのだ。
今でもそう思っている。
どう戦えばいい?そんな正義と